すぐ作れるからこそ、すぐ作らない
AIコーディングツールを使うと、画面、API、データベース、テストのたたき台を短時間で作れるようになりました。小さな社内ツールや業務アプリであれば、以前よりもずっと早く形にできます。
ただし、AIが速く書けるほど、要件のズレも速くコード化されます。
「見積作成を楽にしたい」「問い合わせを分類したい」「顧客情報をまとめたい」といった依頼は、一見わかりやすく見えます。しかし、実際に作り始めると、対象ユーザー、例外処理、承認フロー、既存データ、権限、通知タイミング、ログの残し方など、細かな判断が次々に出てきます。
ここを曖昧なままAIに渡すと、動くものはできます。けれど、あとから「思っていたものと違う」「この用語の意味が違う」「この仕様は誰が決めたのか分からない」となりがちです。
AIコーディングの初手は、コード生成ではありません。最初にやるべきなのは、AIに質問させることです。
質問させると、隠れていた要件が出てくる
最近のAIコーディング文脈では、grill-me のように、AI側から利用者へ細かく質問させるワークフローが注目されています。公開されている mattpocock/skills リポジトリでは、grill-me は計画や設計について共有理解に到達するまで質問し、質問は1つずつ行うというスキルとして説明されています。
大事なのは、特定のコマンド名そのものではありません。思想です。
人間が「こう作って」と言うのではなく、AIに「まだ何が曖昧か」を聞かせる。これだけで、作業の質はかなり変わります。
たとえば、社内の見積作成ツールを作る前なら、AIに次のように聞かせます。
- 見積の対象は商品、作業時間、月額契約のどれか
- 税込・税抜の表示はどちらを正とするか
- 値引きは誰が承認するのか
- 過去見積を複製できるようにするのか
- 顧客に送るPDFまで作るのか、社内確認用に止めるのか
- 見積番号は既存ルールに合わせるのか
- 失注した見積を削除するのか、履歴として残すのか
- 修正履歴を誰が見られるようにするのか
この質問に答える前に実装を始めると、AIはもっともらしい前提で補完します。その補完が正しければよいのですが、業務ではたいてい会社ごとの事情があります。
「AIが理解してくれなかった」のではなく、「人間側が決めていなかった」ことも多いのです。
1問ずつ聞かせる
AIに質問させるときは、質問を一度に出させすぎない方が実務では扱いやすいです。
10個の論点をまとめて出されると、人間側は最初の数個だけに反応し、残りは流しがちです。結果として、後半の重要な論点が未決のまま進みます。
おすすめは、次のような依頼です。
この機能を実装する前に、認識のズレがなくなるまで質問してください。
質問は1つずつ行い、私の回答を受けて次の質問に進んでください。
コードベースを見れば分かることは、先に調べてから質問してください。
この形にすると、AIが人間の代わりに論点を洗い出す役になります。
また、コードベースを確認すれば分かることまで毎回質問させないことも重要です。既存の命名、画面構成、データ構造、テスト方針は、AIが読めるなら先に読ませます。人間が答えるべきなのは、コードからは分からない事業判断や運用判断です。
用語のズレを放置しない
既存のコードベースがある場合、質問だけでは足りません。用語の整理が必要です。
たとえば「ユーザー」という言葉ひとつでも、会社によって意味が違います。
- ログインする社員
- 顧客企業の担当者
- 一般消費者
- 管理画面を使う管理者
- 外部パートナー
この違いを曖昧にしたままAIに作らせると、変数名、画面名、権限判定、通知文、ドキュメントが少しずつズレます。最初は小さな違和感でも、機能追加を重ねるほど修正が難しくなります。
公開されている grill-with-docs では、既存のドメインモデルや CONTEXT.md、ADRを見ながら、用語の曖昧さや衝突を指摘し、必要に応じて文書を更新する考え方が示されています。
中小企業の業務ツールでも、最初から大げさなドメイン設計をする必要はありません。ただし、次のような簡単な用語表は作っておくと効きます。
| 用語 | このプロジェクトでの意味 | 使わない意味 |
|---|---|---|
| 顧客 | 請求先となる法人または個人事業主 | 問い合わせだけの見込み客 |
| 担当者 | 顧客側の連絡窓口 | 自社の営業担当 |
| 見積 | 社内承認前の金額案を含む | 請求確定後の金額 |
| 承認 | 上長が金額・条件を確認すること | 顧客が発注すること |
この表があるだけで、AIへの指示も、人間同士のレビューもかなり楽になります。
ADRは「大きな決定」だけ残す
AIコーディングでは、決定理由も失われやすくなります。
AIとの会話の中で「今回は外部APIを使わない」「削除ではなくアーカイブにする」「顧客データは読み取り専用にする」と決めても、その理由がチャット履歴の奥に流れてしまうと、数週間後には誰も覚えていません。
そこで使えるのがADR、Architecture Decision Recordです。ADRの考え方をまとめる adr.github.io では、ADRは単一のアーキテクチャ上の決定とその理由、トレードオフ、結果を記録するものとして説明されています。
ただし、すべての判断をADRにする必要はありません。小さな画面文言や一時的な実装メモまで残すと、今度は文書が重くなります。
残すべきなのは、次のような決定です。
- 後から変えるコストが高い
- 将来の担当者が「なぜこうしたのか」と疑問に思いそう
- 複数の選択肢があり、明確なトレードオフがあった
- セキュリティ、権限、データ保存、料金計算に関わる
- 既存業務の運用ルールを変える
たとえば、社内ツールで「削除」をどう扱うかはADR候補です。
完全削除にすれば画面は簡単です。しかし、誤削除時の復旧、監査、請求履歴、顧客対応の説明が難しくなるかもしれません。アーカイブ方式にすれば安全ですが、検索や一覧表示の設計が少し複雑になります。
こういう判断は、結論だけでなく理由を残す価値があります。
見積もり精度より、不確実性を見せる
文字起こしの中では、開発見積もりや進捗報告の悩みも出ていました。この話は、AIコーディングとも相性がよい論点です。
AIを使うと、初期実装は速くなります。そのため、依頼側は「すぐできるのでは」と期待しやすくなります。しかし、実際には次のような不確実性が残ります。
- 外部サービスの仕様が想定と違う
- 既存データがきれいに揃っていない
- 権限や承認の例外が後から出てくる
- 帳票やCSVの細かい形式が決まっていない
- 実運用で必要なログや復旧手順が未定
- セキュリティ確認が必要になる
このとき、「あと何日で完成します」と言い切るより、分からないものを分けて報告する方が健全です。
現時点で実装量が見えている部分はAです。
ただし、BとCは仕様確認が必要です。
まず2日でBを検証し、その結果で全体見積もりを更新します。
AIに質問させるワークフローは、この不確実性の棚卸しにも使えます。実装前にAIへ「見積もりを外しそうな論点を1つずつ確認して」と頼めば、見えていない前提を洗い出しやすくなります。
重要なのは、見積もりを当てることだけではありません。依頼側がなぜ完成時期を知りたいのかを確認し、社内調整、営業予定、公開日、顧客説明、予算判断のどれに関係するのかを把握することです。
レビュー前にも質問させる
AIコーディングの初手だけでなく、レビュー前にも同じ考え方が使えます。
コードレビューで胃が痛くなるのは、単に指摘が苦手だからではありません。多くの場合、論点、責任範囲、意思決定者、直してほしい度合いが曖昧だからです。
レビュー前にAIへ次のように聞くと、コメントの出し方が整理できます。
この変更をレビューする前に、確認すべき論点を分類してください。
必須修正、確認したい点、好みの問題に分けてください。
相手に伝えるコメント案も、断定しすぎない表現で出してください。
これにより、「ここはバグなので直すべき」「ここは仕様確認」「ここは好みなので提案に止める」という線引きができます。
AIを使う価値は、コードを書くことだけではありません。人間同士の摩擦を減らすために、論点を整理することにもあります。
外部スキルは安全に扱う
grill-me のような外部スキルは便利ですが、社内利用では導入方法にも注意が必要です。
スキルは、エージェントに追加の振る舞いを与えるテキストや設定です。つまり、内容が変わればAIの動きも変わります。信頼できるリポジトリであっても、社内業務に使うなら、少なくとも次を確認します。
- どのリポジトリから入れるのか
- いつの版を使うのか
- 自動更新されるのか
- スキル本文に危険な指示がないか
- 社内の機密情報を外部に送る誘導がないか
- 変更履歴を追えるか
- 必要なら社内用に固定コピーを持つか
便利なスキルほど、いつの間にか標準作業になります。だからこそ、導入時点で確認しておく方が安全です。
Optiensの見方
Optiensでは、AIコーディング支援を「速く作るための道具」だけではなく、業務の曖昧さを減らすための設計プロセスとして見ています。
中小企業で最初に整えるべきなのは、次の5つです。
- AIに実装前の質問をさせる
- プロジェクト固有の用語表を作る
- 大きな技術判断はADRに残す
- 見積もりでは不確実性を分けて報告する
- レビュー前に論点を分類する
この5つがあると、AIコーディングは単なる試作ツールから、継続して育てられる業務改善の仕組みに近づきます。
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